飛鳥見聞録(編集中)

平成28年10月15日(土)16日(日)、写生一泊旅行「アートピクニック@飛鳥京」が無事終わった。これはそのささやかな随想である。

飛鳥は歴史の舞台である。謎多く、諸説並び立ち、学者の議論がさかんである。しかしその現実性の高低に関わらず、刺激されたことを美術家の空想物語としてつづってみよう。荒唐無稽をお許しいただきたい。絵は未完である。少しずつ進めていくつもりである。
「たたなづく山青垣に囲まれたやまとの盆地はかっては湖の底だったと聞いております。その南の丘に人が住み邑をつくり
『大君は 神にしませば 赤駒の はらばふ田居を 都となしつ』 
(まるで神様のみわざのように 田をたがやす馬が腹までつかって苦労したあのぬかるみの場所を都にしてしまった、なんと言うことだろう)
と万葉(4260)でうたわれているように時代とともに水が引けて湿地帯となった所に都をつくった、そこが飛鳥(とぶとり)の明日香です。」
―「アートピクニック@飛鳥京」の立案実行を司った秋山さんが参加者にあてた礼状はそのような出だしで始まる。万葉人の嘆息は感慨深い。我々から見ればあのように慎ましい里山でさえ、分不相応なものを作ってしまったと、おのれを恐れていると読むべきか。それとも賛嘆か。畏れならいにしえびとはさぞアニミズムを尊んだのだろう。
私の空想はそこから、「奈良湖水地方」の水辺に、海上を渡来してきたのではないかと言われる蘇我氏を中心とする豪族たちが、独自の工夫をこらしながら競い合って建造した古墳群という名のパビリオンで満たされた、へんてこ王国というか、パラダイスというか、永久芸術祭みたいな空間をこしらえた、という風に飛躍する。ちなみにへんてこというのは褒め言葉である。

[画像 古墳群、石造群、モニュメント]

飛鳥時代は大化の改新のあった時代である。
その要点は二つ。
一、中大兄皇子(天智天皇)と中臣(藤原)鎌足による蘇我氏打倒のクーデター=乙巳の変(いっしのへん、おっしのへん)。
二、改新の詔発布による政治改革。
1.それまでの豪族の私地や私民を公収してすべて天皇のものとする公地公民制。
2.初めて首都を定め、中央による統一的な地方統治制度を創設。
3.籍と計帳を作り、公地を公民に貸し与える班田収授法。
4.民に税や労役を負担させる制度改革=祖・庸・調。
この頃から日本は律令制というシステムを導入し、緻密に組織化された中央集権国家を形成していったと見られている。その後水時計(時計の遵守は被支配者にのみ強いられる。支配者に時計遵守の必要はない)、藤原京という計画都市の出現が続く。目盛とグリッド(碁盤目)に囲まれた世界、藤原氏が率いる国家統治システムのはじまりである。 

 

ある時代がはじまったのであれば、ある時代が終わったのだ。
何が終わったのか。
それはアバウト、ファジーと呼ばれる、詩のようなものに包まれた、柔らかい空気の時代だったのではないか。そこではみんな、まあこんな感じで、とささやき石舞台や亀石、方墳、円墳、キトラ…つまりアートの造営に夢中になっていた…。
大化の改新で芸術の時代は終わったのかもしれない。能狂言やわび茶や桂離宮がどんなに洗練されていようとも、飛鳥時代の造形物と比べればどこか他律的である。飛鳥のそれは自律的に孤立し、これでいいのだと呟いている。オンリーワンである。そこが本質的に芸術的なのである。クーデターで殺された蘇我入鹿は、藤原鎌足の息子不比等が編纂した日本書紀では専横を極める横暴な存在として描かれているが、実は極端な平和主義者だったという説もある。飛鳥人はアートの概念を持っていなかったが、それに等しい衝動は強かったろう。むしろ祭祀という名で生活機能の中に現実的に浸透していた。科学という道具で世界を正確に計測できないのなら、感性を研ぎ澄ませ、霊感を武器に生きる方向に向かわざるを得ない(美術家にはそういう傾向がある。私がそうである)。しかし大化の改新以後、覇者は表計算システムによって覇者となった。
あの645年から1300年後の昭和20(1945)年、究極の中央統制システム=大政翼賛会(作ったのは近衛文麿=藤原氏)が滅ぶまで、我が国の政治機構の基本軸はずっと藤原鎌足の設計した律令国家路線だったと言えるかもしれない。いやきっとそれは今も続いているのだろう。しかしその20年後、我が国は何かを祝うかのように、憂さを晴らすように、何かに憑依されたように、吹田の丘陵地帯に大きな記念碑をたくさんたくさん建てまくった。大阪万博である。あの時ぼくらは、つかの間、知らず知らず藤原計画都市以前のユートピア、飛鳥京の復活を祝ったのではなかったか。
秋山さんの礼状は続く。
「この明日香の一等地である南の丘に「石舞台」が千年以上の時を超えて悠然とそびえています。奈良・大和盆地を囲み、葛城、平群、巨勢、蘇我、大伴、物部、中臣(→藤原)豪族たちがしのぎを削り争っていた所でもありますが、そんな人間の営みもなかったかのように今ではこの石舞台を明日香風が吹き抜けていきます。」
1300年の間、さまざまな政変があり、さまざまな外来文化がこの国にやって来た。今私たちが見ているこの飛鳥公園の風景も、100年後には大きく変わっているだろう。しかし石舞台は変わるまい。
なぜ盛り土が失われ、巨大な墓石がむき出しになっているか。権勢を誇った蘇我入鹿がクーデターで倒れた時、その首謀者である中大兄皇子と藤原鎌足が祖父馬子の墓を懲罰的にさらしたという説が有力である。しかし私は、あの記念碑的な巨石を、人々が、もう一度見たい、いつまでも見ていたい、埋めるな埋めるな、ノーモア盛り土と連呼したかどうかは知らぬが、あの姿で残しておこうと願った気配を感じるのである。

感じるというよりも、ある連想がはたらくといった方がいいかもしれない。小3の時に観た宇宙戦艦ヤマトの衝撃と、中1の時に見た太陽の塔の衝撃である。
この話は以前ブログにも書いた。
①太陽の塔は小1の時に万博お祭り広場で一度見ている。ただナマで見た感動はなく、暑さと人ごみの方がリアルであり、メディアから知らされる事前の建造プロジェクト全体の方が鮮明であった。しかしだとしてもそれは圧倒的に揺るぎないユートピア世界だった。太陽の塔は太郎がなんと言おうと、進歩と調和の象徴だった。いや、ちょっと違うか。今から思えば丹下健三や磯崎新が創出したお祭り広場はグリッドに支配されたシステム勝利の空間だった。そこに太郎は異様なもの、システムでは制御できないものを突き刺した。これこそ、藤原型(藤原京/お祭り広場)ー蘇我型(石舞台/太陽の塔)以来続く宿命の対決であり、広場はそれをメインイベントとする祝祭の場だったのではないだろうか。だとすれば、因縁の対決を祝祭に高めた万博の意義は大きい。
②小3。宇宙戦艦ヤマト(そう、やまと。)第1話。放射能に汚染された大地に屹立するべらぼうな沈没戦艦の黒い影。今でこそみんな「ああ知ってる」話であるが、初めて見た時、それはそれは何かやばいものの出現だった。呪術的に我々の心を釘付けにする「あの何か」。
かつて潤っていたあの湿地に、私たちはおそろしいものを作ってしまったという、万葉人のあの畏れが、こだましている。(一方では、すごいもの作っちゃった自己への驚嘆も含まれていよう)。
③これに「猿の惑星」も加えたい。ラストシーンで主人公は突然崩れた自由の女神に出会い、惑星は人類の滅亡した地球だと知るのである。やはり小3だった。[画像]
④中1。万博から7年後。高速道路渓谷の向こうに広がる荒涼とした立ち入り禁止区域の万博記念公園の草原に屹立する太陽の塔。忘れていた幼時の巨神が突如目の前に現れたのである。圧倒された。みんなどこに行ったのか?あの宴は?ああみんな滅んでしまったのだ。その私を包むように、いやぶっきらぼうに、太陽の塔は風にふかれて突っ立っていた。
地球には、滅んでも滅んでも「よお」と現れる、あるいは実はずーっとそこに居る得体のいしれない、べらぼうなものが存在する。石舞台はその一つだ。そしてあんなざくっとしたモダンアートみたいなものは、その後の日本の歴史には出てこない。大仏にしろ、洛中洛外図屏風にしろ、風神雷神図にしろ、あんなラフな造形物はないし、かつあれほど豪壮な物もない。大化の改新以後、あの石舞台に現れていたおおらかなしかし魔術的な精神は封印されたのだろうか。ほんとうに、我が国において、戦後になってようやくあの変なものー太陽の塔が復活したのである。
[画像―亀石]
一方、亀石といい猿石といい須弥山石といい、飛鳥石造物群は底抜けでつかみどころのない風情を出している。謎めいている。この脱力系こそ、日本人に顕著な特徴だとも思う。日本人は何となく、かしこまりに対する照れ、「〇〇である。…なんてね」とくだけずにはいられない心性を持つ。折り目正しさを尊重しても、どこかに排気口をつけてしまうおちょけ精神。そうしないと何かを裏切っている気がする。何に対して?システムの敷かれる前のいにしえびとに対して、という見方。きっとおちょけはシステムに反旗を、アートにハグを、のあらわれなのである。折り目正しさへの抵抗は、一つの志と見てもよい。鉄の武器とシステムを装備してやってくる巨大な力に、木と石で抵抗するいにしえびとがいた。亀石は、八百万神アニミズムを尊び、自然界の精霊たちと交信した平和主義者あるいは脱力系の声なきマニフェストの記念碑である。
もう一つ、飛鳥以前と戦後を結びつけるのものに女性リーダーの存在を挙げたい。神功皇后、卑弥呼、推古天皇、持統天皇など。これも1300年間封印された文化の一つ?。制御しがたい、謎めいた、神秘的な、そして美しい力。
/清原健彦