講 師 紹 介

 

前 史

清原絵画教室発足まで 

  

 

■昭和40(1965)年 秋 

神戸市灘区に生まれる。

    

■昭和43(1968)年 3歳

神戸市垂水区に転居する。自宅近くの大型団地、大阪万博の工事風景、ウルトラマンに触れながら過ごす。これらは後年、郷愁を抱かせる原風景となり、絵画制作の主要な動機となる。

 

■昭和53(1978)年初秋 12歳

万博跡地を訪れ、かつて栄華を誇った万博が忽然と消えていたこと、荒涼とした草原に太陽の塔が独り飄然と立っていたことに二重の衝撃を受ける。

 

■昭和55(1980)年春 14歳

配布された美術の副教材に載っていたキリコの「街の憂愁と神秘」を観て衝撃を受ける。その時の驚きは「俺この景色知ってる。これ俺の景色やん、この人なんで知ってんの?」であった。絵には凄い力があると思った。

 

■昭和58(1983)年夏 18歳

漫画雑誌ガロを知り、衝撃を受ける。あー俺は心の闇(病み)を抱えていたのだ、俺以外にも病んでる奴がいる、そして闇は表現によって克服し得る、闇が表現の原材料になり得るのだ、という発見であった。落伍者、日陰者、逸脱者という自覚が、表現者としての出発点となった。漫画家になりたいと思った。

 

■昭和60(1985)年夏 19歳 

中国1か月の旅。放浪者(バックパッカー)という文化、新疆ウィグル自治区、チベット自治区などの辺境を知り、衝撃を受ける。それはアヴァンギャルド(既成通念の崩壊)であった。そして異文化圏を旅することで心の闇を克服できるのではないか、という希望を抱いた。また、放浪の彫刻家と出会い、自分もああなりたいと思った。しかし「どうやって社会に益するのか」という視点は抜け落ちていた。私は幼稚であった。 

 

■平成2年(1990)年秋 25歳 

ブラジル2か月の旅。自分探し続行中。旅の中での出会いと別れ(幼稚な男によくある失敗)もあり、喪失感・悲嘆・自己嫌悪が増しただけでむなしく帰国。また、サンパウロ在住の日本人女性画家に「できれば絵を描く仕事をしたい」的につぶやいた言葉が彼女の何かに火をつけてしまい、「絵空事言ってんじゃないわよ、絵で食べていくのがどれだけ大変かあんた分かってんの」という、絵に描いたような罵声を浴びる事態を招いた。今思えば向こうも20代の虚勢だったであろうか、しかし私はへこんだ。この事態は、とにかく技術を持たねば、という危機感をもたらした。食えるか食えないかを顧慮する余裕はない。子供の頃の「清原って誰?」「ちょと絵のうまいやつ」「ああ、あいつ」的な図式が、これから進む道のただ一つの根拠だった。取り柄はそれだけ、あとは最低の自分。設計も見積もりもない。それでも道は決まった。絵の技術を磨くと。今思えば、彼女は私の何かに火をつけたのだ。一撃を見舞いたくなったのかもしれない。あの「絵がいかに大変か」という陳腐な常套句に。

 

■平成3(1991)年春 25歳 

東京目黒・鷹美術研究所(鷹美)で絵の勉強をはじめる。自己嫌悪続行中。木炭で静物をデッサンをしている時だけが、落ち着いていられる時間だった。不思議と、苦しみの波が追いかけてこない。絵画には何かがある。描く行為、いやむしろ描くことによって観察する行為には苦しみを振り払う何かがあることを、この時体感的に知った。鷹美では絵を教えてもらったことがない。デッサン初日に木炭の芯抜きを教わったぐらいで、あとは毎日実践のくり返し。それでよかったと思う。9:00から16:00まで絵画、17:00から23:30までホテルの飲食店で給仕という暮らし、すなわち、美術の時間ではばたかせた第1の人格をしまいこみ、飲食業の時間になると第2の人格が交代して労働する日々がはじまった。二重生活は意外ときつく、この分裂したキャラを統合するために、第1(絵ではばたく人)だけで稼ぎ、第2をやめる日が早く来ますように、と星に願った。

 

■平成6(1994)年冬 28歳 

東京銀座・大八木画廊にて3人展(象三倶楽部発表会)。F100号2点と板絵4点を出展し、完売。板絵4点、香港在住のスイス人銀行家夫妻が購入。夫妻が搭乗する飛行機で作品を運ぶため、製函屋にオーダーした梱包が完成した時、職業美術家の喜びを少し味わった。しかし気分は自分探しを続けるニートであり、ささくれた気分が満たされたわけではなかった。

 

■平成7(1995)年春 29歳 

東京銀座・大八木画廊にて3人展(第2回象三倶楽部発表会)。訪れた美術評論家から「がっかりした。去年、あーすごい人が出てきたと思ったのに。あのルネサンスみたいなの、もうやらないの?」と言われた。そして「こういうの観るといいんじゃない?」と渡された案内状を頼りに、西新宿の現代美術ギャラリーを訪れた。そして初めてホワイト・キューブ空間と、ゲルハルト・リヒターやシグマ―・ポルケをはじめとする現代美術作家の仕事を知った。そこで自分が今、自分の引き出しにない、したがって比較対象の無い、したがって評価不能の、ほとんど未知の、しかし何らかの原理に基づく空間に立っていることに気づいた。そしてそれは、美術館という公共空間では体験し得ないものだった。ギャラリーでは表現が直接的に「あなたに」と迫ってくる。私は、あの評論家に感謝している。「せめてお名前を」との問いに「えーと、いややっぱり恥ずかしい」と言って名乗らなかったあの人に。今日性とはこういうものという規範を教えてくれたこと、しかし勉強不足で今日性の規範から遠く離れた私の絵をも評価してくれたという、2点によって。私は、あれはきっと凄腕の評論家だったのだと推測している。

 

■平成7(1995)年春 29歳

月1回のペースで古典技法の教室に通う。約3年続く

 

■平成7(1995)年秋 30歳

東京銀座・ギャラリー毛利にて初個展

 

■平成8(1996)年夏 30歳

シルクスクリーンの講習を数回受講

 

■平成8(1996)年夏 30歳

壁画の会社でアルバイト。翌年の春まで

 

■平成9(1997)年春 31歳 

4か月のスペイン旅行。マドリッドでプラド美術館での鑑賞・研究、マドリッド美術協会での人物画制作、市中戸外での風景画制作の日々を送る。バルセロナ、南仏、パリを訪れる。 

 

■平成10(1998)年春 32歳 

東京銀座・ギャラリー毛利にて2回目の個展

 

■平成10(1998)年秋 33歳       

大阪心斎橋大丸美術サロンにて個展

 

■平成11(1999)年冬 33歳 

大阪西天満・シティギャラリーにて個展

 

■平成13(2001)年春 年35歳 

三重県伊賀上野市産業廃棄物処理場・三重中央開発「壁画制作」

 

■平成13(2001)年春 年35歳

韓国ソウル・戦争記念館にてGCC主催グループ展「インターナショナル・グループショウ-ソウル・ピース」参加

 

■平成14(2002)年冬 36歳 大阪府立現代美術センター企画個展「Photography2ー絵画との親和」

 

■平成14(2002)年春 36歳

清原絵画教室発足 

 

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